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| 萩から旭村を通り、山口市を経て防府市三田尻に至る全長約53kmの街道。 慶長9年(1604)毛利輝元の萩城築城により「お成り道」として開け、明治の中頃までの300年間、参勤交代や維新の志士達が江戸へ京へ、また飛脚や庶民など多くの人が行き交い歴史上重要な役割を果たした道を保存整備した。 途中には一里塚、石畳など歴史的史跡も多い。 平成元年に国指定史跡に指定、さらに平成8年文化庁から「歴史の道百選」にも選ばれた。 |
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| 大名行列が、維新の志士たちが、さまざまな人々が、ゆきかった道。 | |
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萩往還を萩方面から山口に向う場合、鹿背坂トンネルの上にある @悴坂駕篭建場跡を過ぎたあたりが旭村と萩市の境界である。そこから坂道を下っで県道に入り、近年整備された休憩所を通り過ぎると、左手に分かれ道がある。悴坂の谷へ下る坂道だ。参勤交代の際には千人以上もの人々が通行したといわれる往還道であるが、道幅はおよそ四米、平地はともかく坂道は登るのも下るのも決して楽ではない。道の脇を流れる小川の水音に耳をすまし、木立に囲まれた下り坂をしばらく行くと、先のとがった岩が路傍に露出しているのが見える。これは |
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A烏帽子岩と呼ばれる岩で、道ゆく人の道標として古くから記録に残されている。この岩の所で |
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B殉難三士(権現原に碑がある)のうちの二人の首がさらされたと伝えられている。坂を下りきるとまもなく明木川に行き当たる。しばらくは川岸に沿うように進んでいくと、やがて現在の明本橋に至る。川沿いの往還道と明木橋の位置は時代によって微妙に変更されており、現在の道はかつてのものとは若干異なっているという。橋を渡って県道に入り、 |
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C明木市を通過する。明木市はかつて駅の置かれた集落であったが、明治二十四年に大火で消失したため現在の町並みはその後再建されたものである。明木市を県道に沿って進み、明木農業協同組合の所で左に折れる。しばらく行くと、途中に萩往還から右へ分かれる小道がある。この道は |
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D赤間関道で、下関に通じる道であった。現在明木農協の角にある「右せき道 左山ロ道 干時慶應三ヶ卯歳建之」と文字の刻まれた |
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E道標は、かつてはこの分岐点に置かれていたらしい。この分かれ道のあたりには堂尾一里塚があったといわれるが、今では痕跡は残されていない。堂尾一里塚跡を過ぎ国道二六二号のガード下をくぐると、川沿いを進む山道となる。ここは「炒豆を食べながら歩くと、坂を登りきるまでにちょうど一升食べてしまう」ほど長くて急な登り坂であることから、一升谷と呼ばれている。一升谷の登り坂をしばらく進むと、道の左側に |
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F一升谷の石畳がある。雨水で斜面が流されるのを防ぐために平らな石を敷きつめたものだが、昔の面影をよくとどめた歴史を感じさせる石畳である。一升谷の石畳を過ぎると、明治九年の萩の乱に加わりその後県庁軍との戦いのさなかに自害した、 |
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G町田梅之進自刃之地がある。山道は川に治ってまだまだ続く。歩き疲れたら立ち止まってあたりを見回してみるのもいい。途中には巣箱のかけられた木々が見えるし、足元には草花が、川は小さな滝をつくり岩にぶつかりながら豪快に流れている。登り坂もそろそろ終わりに近づくころ、根の迫の橋を渡り、つかず離れず道に沿っていた川に別れを告げ、五文蔵の峠に入る。そばに休憩所が整備されているので、峠を越える前に一休みすることができる。ここから登り坂の頂点までの間には、五文蔵の石畳と釿切の石畳がある。峠を越えて国道二六二号のガード下をくぐり、釿切の集落へ入る。この集落の中ほどには、御駕籠建場があったところがあるが、今では痕跡はない。集落の外れで左へ折れ同道へと向う。国道の傍らの竹林公園を過ぎ、しばらくは国道を進む。それから再び小道へ入り山道へと進む。整備された石畳の道を通り、 |
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H落合橋を渡って千持峠へ向かう。峠の手前には休憩所が整備されている。峠を越えると久年集落だ。高みから佐々並の中心街が見えてくる。 |
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I佐々並市は宿場町、市の町として栄えた集落である。萩の乱で焼失したものの、佐々並橋を通過し旭村役場佐々並庁舎前から佐々並農協木材部に至る道筋には往時の面影が残っている。この地には藩主が休憩する |
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J御茶屋もあり、農協木材部の敷地がその跡地である。また付近には市頭の一里塚があったという。佐々並市から貴船神社下を通り過ぎ、しばらくは山と水田を望みながらゆるやかな坂道を登る。山の中の峠道とは趣が異なり、見上げれば空が大きく開け風通しのいい広々とした場所だ。周囲を観察すると、棚田の石垣や水路の造りにも歴史の重みが感じられる。道はやがて国道二六二号につながる。国道を山口方面に向って進み、日南瀬峠を越えて村道に入る。日南瀬川に掛かる橋を渡り数百米行くと、左手に |
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K首切れ地蔵がある。首切れ地蔵が安置された向かい側には、かつては百池という池があったが、現在では埋め立てられて休憩所になっている。ここから三百米ほどで県道山口旭線だ。県道に出ると国境までもう一息だ。あとはほとんど県道にそって進むことになる。途中には左手に |
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L上長瀬一里塚、さらに進むと |
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M逆修石がある。上長瀬一里塚は萩往還の一里塚の中でも比較的原型に近い形で残された貴重な遺構である。逆修石は山の稜線から飛び出した大きな岩で、表面には江戸時代初期に刻まれたとおぼしき文字がかすかに読み取れる。そこを過ぎて右手の夏木原入り口には茶屋(休憩所)があった。安政六年、吉田松陰が江戸へ送られる時にここで休憩し詠んだという漢詩が |
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N碑に刻まれている。その南の板堂峠が萩往還の旭村と山口市との境で、ここには「南周防国吉敷郡」「北長門国阿武郡」「文化五年戊辰一月建立之」と彫られた |
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O国境碑がある。この碑を境に萩往還は山口市へと入っていく。 |